私の故郷はニュータウン

文章: 塩谷舞


「大阪万博のすこし前に、田舎からここに越してきたから」

「あの時は、外国の人がほんまに、ようさんきてねぇ」

小学校の頃、「地域のおとな」に話を聞こうというフィールドワークで、おとなたちは決まって、とても誇らしそうに、大阪万博の話をした。

 

正式名称は、日本万国博覧会。

それは私が生まれるより18年前のこと。

もう還暦を過ぎた父と母がまだ子どもだった頃、アジア初の万国博覧会が「家のすぐそこ」で開催されていたというのは、それはそれは誇らしい出来事だったんだろう。

テレビで高度経済成長の話題が出るたびに、「こんにっちは〜 こんにっちは〜 世界の〜 国から〜」という歌詞と共に、セピアがかった大阪万博の映像が流れる。千里ニュータウンという大規模なベッドタウンが、豊かになった日本の象徴として紹介される。そのたびに、おとなたちはみんな「ワッ!」となって、それぞれの昔話を語りだした。

「昭和天皇や皇太子さまが千里ニュータウン視察に来はったんよ」「自動改札機が日本で最初に設置されたんは北千里駅なんよ」……なんて話は何百回と聞いた。もう耳タコやわ、と思いながらも、「すぐそこ」がテレビに出てて、私もちょっと誇らしかった。太陽の塔は、今でもすぐそこにある。

 

でもそれは、過去の遺産だ。


私は1988年、大阪の北摂、千里ニュータウンで生まれた。

 

私が生まれた頃のその町はもう、祖母や母が自慢する「豊かな日本の象徴」ではなく、町の歴史と共に高齢化した、のどかなベッドタウンになっていた。

安全で、のんびりしてて、緑がいっぱいで、商業施設がほとんどなくて。かわりに公園がたくさんあって、道も広くて、車はめったに走ってこなくて。だから家の前にサッカーコートを作ったり、野球したり、竹やぶの中でタケノコを探したり、クヌギの木に蜜をつけてカブトムシを捕獲したり、友だちの団地の下にもぐったり、栗を拾ったり。ご近所さんは優しい老夫婦が多く、ハロウィンでもないのに突撃しては、アイスやお煎餅をもらいにいった。

夕方まで近所の誰かと時間を過ごして、万博の森に帰るカラスたちの声がカァカァ聞こえてきたら、家に帰る。

たまに「千里中央」の阪急百貨店にショッピングに行き、祖母が千里阪急ホテルへディナーに連れていってくれる。とはいえそれも徒歩圏内だ。しあわせに暮らすために必要なものは、徒歩圏内にぜんぶある。

そんな感じの日常だった。

 

町と自分の境界線なんてなかった。どこに行っても知ってる顔ばかり。あそこはピアノの先生んち、あそこは上のお姉ちゃんの同級生のとんちゃんち、あそこは真ん中のお姉ちゃんの友だちの……と、ほとんどの家のことを知っていた。すれ違う人みんなが声をかけてくれた。

でも、小学校高学年くらいだろうか。それが実は「つくられたユートピア」なんだ、と気づきはじめた。

“千里ニュータウンは、1962年~1970年の高度経済成長期にわずか8年間で建設され、似たような若い核家族が一度に入居しました。完成と同時期の1970 年には、隣接地でEXPO’70が開催され、交通も環境も整備され、千里の名は一躍有名になりました。多くのニュータウンが千里にならって日本中に建設されました。”

https://senri-nt.com より

 

高度経済成長期の日本が考える理想の家庭、理想の教育、理想の都市設計の実験場が、千里ニュータウンだった。

団地と戸建て、学校や病院が計画的な比率で配置され、商業施設は駅のまわりだけに集約されて、コンビニは厳禁。自動販売機すら置いちゃいけなかった。

まわりの町の名前は、佐竹台、高野台、津雲台、竹見台、桃山台、古江台、藤白台、青山台。どれもこれも、平和な響きだ。私は「ふるえだい」で暮らすこどもだった。


それが普通だと思ってた。日本中、みんなそうして暮らしてると思ってた。

でも違った。小学校高学年の頃、阪急電車を南に下って「南方(みなみかた)」まで行ったとき、そのガチャガチャとした街の空気や、風俗店のネオン、大正時代からあったんやない?と思わされるような古いお店、酔っ払ったスーツの大人たちと化粧をしたお姉さんたちの群れに、ひどく心がざわめいた。

街が、息をしている。空気は汚いし、長居したくはないけれど、街がドクドクと生きてて、なんだか、こわい。こわいけど、すごい。

 

 

「うちの地元は綺麗すぎるんや。あんなん作りモンや」

 

高校に進学したときは、淀川より南——大阪市内から通ってくる子たちの酸いも甘いも知り尽くしたような顔つきにも、おどろいた。少しこわかったけど、それよりも羨ましかった。ドクドクと生きてる街で育った子たちは、「ほんまもんの大阪」らしい空気をしょっていた。

 

テレビで「これが大阪」として紹介されるような、古い商店街も、賑やかなヒョウ柄のおばちゃんも、常連さんが呑んだくれるような古い居酒屋も、千里ニュータウンにはない。だから、大阪って言われるのが嫌だった。

 

「大阪やけど、大阪ちゃうねん、千里ニュータウンやねん」

「なんもないねん。イオンくらいしかない、遊ぶとこは。あと最近、スタバができたけど」

いちはやくトレンドを押さえたい高校時代。でも、大阪市内の子たちには勝ち目なんてなかった。だってここには、トレンドが生まれるような空気は、なにもない。

公園よりもコンビニが欲しい。最新のプリクラ機種も欲しいし、細かいものがたくさん売ってある雑貨屋さんも欲しい。それに、小汚い居酒屋が欲しい。古い商店街をわがもの顔で歩いてみたいし、食べ歩きとかもしてみたい。古着屋さんにも行きたいし、エントツのある銭湯も行ってみたいし、コインランドリーを使ってみたい。

電車に30分乗れば梅田には出れるけど、梅田にいる自分はなんかちがった。馴染んでなかった。

 

とにかく刺激が欲しかった。退屈なこの町を飛び出して、どこか遠くに行きたかった。ただ、二人の姉はどちらも関西圏の大学に通っていたため、それを見ていた私にとって「どこか遠く」の行き先は、実家から電車で通える知らない街だった。ヨーロッパの教会のように美しい関西学院大学や、京都御所にほどちかい同志社大学なんかの資料を見ては、そこに通う自分を想像して気持ちが盛り上がり、それまでさして頑張ってこなかった勉強にも身が入った。

「ここじゃない場所」の候補地に大した意味はなかったけれど、とにかく、ここじゃない場所に行きたかった。守られた、のんびりとした、毒のない、安全圏を出たかった。

「やっぱり美大に行きたい!」と発狂した高校3年の12月。自分の中で何かが弾けて、突然の進路変更をしてしまった。

真面目な両親からの許可がおりそうな美大……国公立で、親も知ってる大学で、家から通えるとなると、1つしかなかった。京都市立芸術大学。

オープンキャンパスすら行かずに勢いだけで受験したその大学は、京都・亀岡市の近く、国道9号線沿いにある。阪急桂駅から30分に1本だけ出るバスを頼りに、2時間かけて大学へ通った。

正直、憧れるような刺激的な立地じゃなかったけど、日本最古の芸術大学には、いろんな場所からいろんな子が集まってきてた。

鳥取や岡山、富山や広島、北海道に青森……いろんな地方の子と友だちになった。それまで「大阪市内」の子か「千里」の子、あとは横浜に住むイトコくらいしか知らなかったのに、突然あらゆる地方の空気がどどどっ!と入ってきた。まるで日本全国から出店が集まる直産市みたいに、みんなそれぞれが先月まで住んでた故郷の話をした。

 

「冬はもうずっと雪掻きだよ! 体育はスキーばっかだしね」

「あのへんは海しかないからねぇ。でも魚が美味いよ〜! こっちでは絶対、刺身なんか食べられへんもん」

「なんや、小綺麗なカッコしてるなぁ。一般大学の学生みたいや」

 

大学の中ではよく「小綺麗」と言われた。芸大におけるそれはあまり褒め言葉ではなく、「あなたは深みがないですよ」と小馬鹿にされているように感じた。

表現者になるための大学。そこに充満する濁った空気。森村泰昌、やなぎみわ、ダムタイプ、キュピキュピ、パラモデル、ヤノベケンジ……大学の大先輩たちの作品を観るたびにガツンと身体をエグられた。小綺麗なんかじゃない。衛生的でも、平和でもない。もっとエグくて、もっと「ホンモノ」で、もっと……

ここでは、みんなが自分の歴史を掘っていく。どんな場所で育ったか、どんな空気を吸ったかは、そのままアイデンティティになる。それにパンチがあるほど、その人の存在の説得力は増していく。

みんなの話に出てくるような、とんでもないオッサンとか、とんでもない豪雪とか、とんでもない苦労話とか、とんでもない家柄とか……私の近所には、そんなセンセーショナルな物語は起こらなかった。一切の刺激はない。あるのは平和な暮らしだけ。それも、意図的に汚いものを切り落とした、偽善の平和だけ。そんな実験都市で育った自分は、奥行きのない「ペラッペラのつまらん人間」やと思った。

そんな自分が嫌で、大学時代は何かに取り憑かれたみたいに、毎月最安値の夜行バスを狙って東京に行っては、表参道やら渋谷やら原宿をめぐりまくった。でも、青山学院大学の前を通るときも、上野の東京藝大の前を通るときも、悔しくってキリキリした。

 

 

 

 

——それから10年。

23歳で地元を離れ、念願の東京で7年間過ごした。古い商店街で買い食いもしたし、新宿の高層ビルで夜景を眺めながらカクテルもたしなんだ。立ち食い居酒屋も行ったし、飲みつぶれて記憶をなくしたし、会社で朝まで働いてネットカフェでシャワーを浴びたりもした。

望み通り私はそこで酸いも甘いも吸い尽くし、少々疲れた。仕事のステータスは目まぐるしく変わり、望んでもいない方向へ人生が進んでいきそうで怖くなった。


「どこか遠いところへ行きたい」

 

次の街へ。出来るだけ遠いところへ。

 

 


 

「塩谷、どこ引っ越すん?」

「ニ、ニューヨーク……」

「はぁ?!」

10年ぶりに友人の結婚式で会った高校の友人からは、ニューヨーク在住であることをひたすらネタにされた。いや確かに、似合わなさすぎて自分でも恥ずかしくなる。東京の次はニューヨーク、なんてわかりやすいミーハーっぷりだ。

でも「ニューヨーカー」に見える人のほとんどは、アメリカの田舎町、もしくは国外からやってきた野心家ばかりだ。ここでもまた、12年前、京都芸大に進学したときと同じように、多種多様なバックグラウンドを持った友人と出会うことになる。

シリア出身でテレビ局勤務の友人は自国の治安についてInstagramでポストしていて、台湾出身でパーソンズ大学に留学中の友人は「小さな国を出て、私はこの大都会で成功してみせる!」と士気を高めている。インド出身のメディアアーティストの友人は、いかにインドの田舎がここと違う世界かを教えてくれた。みんな故郷があり、その空気をまとっている。

 

 

 

均質で、平和で、臭いものから遠ざけられた、私の故郷。

工業製品の輸出大国で生まれた、無菌室育ちの自分。あれは実は、きっとすごく日本らしい育ち方なんだ。部屋の床を神経質に拭きながら、「まさに私って、Made in Japanだな」と笑ってしまった。可笑しいかもしれないが、日本車をみると仲間に見えてふふふと笑ってしまう。

今住んでいるのは、ブルックリンのウィリアムズバーグというエリアにあるコンドミニアムだ。日本でいうタワーマンションのような大型集合住宅。

ウィリアムズバーグは長年倉庫街だったため、ブルックリンの中では開発が遅れていた地域だ。ただここ数年で計画的な大規模開発が進み、大都会マンハッタンとは違う、ゆったりとした、あたらしい暮らしを求める人が急速に移り住んできている。

ニューヨークの中でいえば治安はずいぶんと良くて、みんなリラックスした格好で犬の散歩をしたり、イーストリバー沿いの公園で子どもたちと遊んだりしている。

工事現場の囲いには「あなたはまだ、本当のウィリアムズバーグを知らない」だなんてサインが描かれている。その囲いの中では、新しいコンドミニアムが今まさに建設されている。もっとたくさんの、あたらしい住人を受け入れるために。

 

 

私のおばあちゃんとおじいちゃんは、和歌山の田舎を出て、野心を持って、大阪に引っ越してきた。そこで選んだのが、あたらしい町、千里ニュータウンだ。私と夫も、ニューヨークの数多の物件の中で「あたらしい街」を選んだ。地元とは似ても似つかない風景が、なんだか心地よいのは、故郷のなりたちに似ているからかもしれない。

 

 

 

 

——みんなが祖国のことを語るのと同じテンションで、私はこう自己紹介する。

 

私の地元は、日本の高度経済成長にあわせて生まれた、大阪都心部のベッドタウンです。

そこでは町が美しく整備され、商業的な営みは限られたエリアでしか許されません。

たくさんの公園があり、子どもたちは親の目を離れて、日が暮れるまで町を走り回って遊んでいます。大人たちは都市部で働き、30分電車に揺られながら、家に帰ります。

とても日本らしい、合理的で、計算された、穏やかな平和を愛する町なんです。それが私の故郷であり、アイデンティティです。すごくユニークで、おもしろいでしょう?

 

 

 

文章: 塩谷舞(@ciotan

このエッセイは、2021年2月25日、文藝春秋より販売された『ここじゃない世界に行きたっかった』にも収録しています。同書は、過去にmilieuやnoteで発表したエッセイを大幅に加筆・修正し、さらに6編の書き下ろしを加えたエッセイ集です。

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はじめに

Ⅰ 共感、美しくあること

SNS時代の求愛方法
数字が覚えられない私、共感がわからない夫
ニューヨークで暮らすということ
美しくあること、とは
私はそのパレードには参加出来ない
「ここじゃない世界に行きたかった」――アイルランド紀行

Ⅱ じぶんを生きる
「化粧したほうの私」だけが存在を許される世界で 
人の話をちゃんと聞いていませんでした 
私の故郷はニュータウン 
先に答えを知ると、本質に辿り着きにくくなる
競争社会で闘わない――私のルールで生きる
ミニマルにはたらく、ということ

Ⅲ 生活と社会
晴れた日に、傘を買った話
五感の拡張こそがラグジュアリー
徒歩0分のリトリート
BLM、アジア系アメリカ人、私の考えていること
大統領選、その青と赤のあわいにある、さまざまな色たち

Ⅳ 小さな一歩 
大志は後からついてくる
続・ニューヨークで暮らすということ
「良いことでは飯が食えない」への終止符を
私の小さなレジスタンス
大都市から離れて
50歳の私へ

あとがき

 

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