美しくあること、とは

(文章・写真:塩谷舞)

 

 

20歳の頃から、自分の感性が美しいと思うものを、ずっと避けていた。

 

当時京都の芸大生だった私は、「美大生・クリエイターのための」と謳ったフリーマガジンを創刊し、関西を中心に日本各地に設置していた。仲間たちと頑張って作っていたので、読者からの反響も、広告掲載の依頼も、ありがたいことに沢山集まってきていて、なかなかの手応えがあった。発行部数は1万部。今思うと僅かな数字ではあるけれど、「美大生」という小さなマーケットに情報を届けるには、充分な数だった。

 

ある日、大学のゼミでそのフリーマガジンのことを発表していたとき、講師の方にこう言われた。

「美大生の……と掲げるならば、塩谷さんの趣味趣向に当てはまらない領域もしっかり載せてあげて欲しい。美大生の中には、ここに出てこないことをしている人もいるでしょう。たとえば保存修復とか……」

なるほど確かに、と思った。

 

当時20歳だった私は、華やかなものばかりに目を向けがちで、その雑誌を飾る多くはペインティングや彫刻、舞台芸術、ファッション、版画、イラストレーション、グラフィックデザイン、もしくは様々な企画を編みだすプロデューサーなどだった。いつだって新しい時代を作るムーブメントに熱狂していたし、新しい情報が入ればすぐさま現場に駆けつけて取材していた。だからこそ、古い絵画などを修復する人たちのことは盲点だった。もちろん、そこで頑張っている同級生がいることも知っていたし、親しい友人でもあり、尊敬もしていた。が、自分の守備範囲ではないと思っていた。

 

大前提として、人の手で編集している以上、そこに必ず取捨選択が存在する。けれども、その講師の一言を受けてから、できるだけ「公共性」のようなものを意識しなければならない、とも思い始めた。というのも、他に関西発祥の類似メディアはなかったし、多くの美大受験予備軍の高校生たちも「美大生活の情報源」として読んでくれていたからだ。

他のゼミ生たちが偏愛を極めていく中で、一人ブツブツと「公共性…公共性……」と自分を押さえつけるように念仏を唱えていた。

もっとお洒落なものにしたい、もっと世界観を統一させたい、というメンバーもいたけれど、「これはZINEじゃないし、作品でもない。美大生のための情報メディアだから!尖らせて、読者を切り捨ててしまうようなことはしたくない」と熱弁し、出来るだけ幅広い情報を届けていた(つもりだった)。広い視野を持ち、広く伝えることは至上命令だ、と。

そうこうしているうちに、「自分の好むものだけを選ぶ行為は、やっちゃいけないこと」だと思い始めるようになった。

 


それは会社員になってから、より強固なものになった。フリーマガジンの運営は後輩たちに任せ、渋谷区にある会社で、いちWebディレクターとして、数多のキャンペーンサイトやコーポレートサイトを作る仕事に就いた。それまでアートやデザインと呼ばれるものばかり触れていたが、会社員の頃クライアントになったのは、医療や金融、福祉など、社会を支えている大きな存在だ。これまで「美大生の…」と躍起になっていた自分のちっぽけさを感じつつ、社会的意義のある仕事に武者震いした。

そこで学んだことは、まず第一に、マーケットリサーチ、そして競合比較。マトリクスの中でポジションを確認し、チームに共有してから、作るべき正解を「当てに」いく。人様のお金を預かりながら自分の感性の引き出しの中から答えを探すというのはもちろんNGで、そんなことをすれば、正しいマーケットが捉えられなくなってしまう。ゆえに自らの「感性の引き出し」は蓋を締めて鍵を掛け、毛布のようなものでくるみ、心の奥底に沈めた。ボタンの色や形は、私の好みなんて知る由もなく、可読性の高さ、クリック率の高さで決まっていく。

 

 

その結果、どうなったか。

自らの信じる美学を探求している人が、羨ましくなるのだ。いや違う。羨ましいなんてもんじゃない。妬ましい、というほうが近いだろう。

私は社会のために我慢しているのに、私は感性に蓋をして鍵を掛け心の奥底に沈めているというのに、その傍らで美しさを追求する人たちは、甘い砂糖菓子のようなナルシズムに埋もれているようにも見えた。距離を置きたい、見たくない、けれどもSNSの拡散で目に飛び込んでくる。当時の心境を言葉を選ばずに書いてしまうと、「自分のことばかりに酔いしれやがって!こっちは身を粉にして他人様に時間と精神を奉仕して、もう何日もろくに寝れてないんだよ!」 というお粗末な感情だ。本当に自分がやりたいことではない部署に配属されたため、ある種の被害者意識のようなものも強かったのかもしれない。

 

” 睡眠。何よりも睡眠。当時はとにかく寝る時間が欲しかったのだ。当時、朝はメイクが間に合わずマスクをして電車に飛び乗り、井の頭線渋谷駅のトイレで化粧を済ませた。ファンデを叩き、チークとアイブロウとアイラインを乗せるまでで60秒。60秒でどこまで完成させられるか、というスポーツだ(汗だく)。”     

──「汚部屋に住んでいた」より

 

「贅沢は敵!」 

 

平和な日本の平成後期、東京の小さなワンルームマンションで、ひとりそんなプロパガンダを掲げていた。心が戦闘モードなので、仮想敵も増えていく。たとえば、アパレル店員、美容師、百貨店にいる美容部員──…。美しさを生業にしている人の前に立つと、寝不足で疲れ果て、髪も肌も服もボロボロの自分が否定されているように感じて、惨めだった。今思えば、勝手に試合のゴングを鳴らし、勝手にボコボコに負けて惨めになっているのだから、あまりの滑稽さに笑ってしまう。

でも当時は、何かにしがみつくことに、アイデンティティを死守することに必死だったのだ。ズタズタになった自尊心を癒やすには、相手を否定して、自分を肯定するしかなかった。「自分はもっと頑張ってる、自分に手をかけるよりも私にはやるべきことがある」という対抗心で心の平静を保った。そうすると、痛みはいくらか和らいだ。他者の否定は、束の間の心の薬になる。

 

仮想敵は多かった。政治や経済、社会問題のトピックは扱わず、ひたすら「量産型モテ」をヨシとしてくるファッション誌も敵だったし、動きにくいわりに高額な服ばかり並ぶ新宿伊勢丹も敵だった。敵!敵!敵!と眉間にシワを寄せて呪いながら、ただただ忙殺され痛む心に薬を与えていたのだ。

実を言えば、19歳の頃は自分も華のように着飾るアパレル店員だったのだが、戦闘モード真っ最中にはその過去をすっかり忘れていた。もっとも、人は遥かな遠い場所にいる相手には嫉妬心を抱きにくく、「自分がそうなれたかもしれない姿を実現している人」に対して嫉妬するものだ。

 


──時は流れ令和になり、こともあろうか、私は美しいものを細胞レベルに肯定して生きている。ここ数年の間で、私の中の「美しくあること」という定義が、天と地ほどに変わってしまったのだ。

 

29歳から始まった人生初めての海外暮らしでは、言語表現では意思疎通が不十分。あまりにもストレスフルな環境で、何よりも頼りになったのはなんと、これまでの経歴でもなく、人脈でもなく、自分の心の底で鍵を掛けてしまい込んでいた、美意識だった。

おぼろげながらも自らの中にある美意識を確かめて歩いていくと、その先に様々な出会いが待っていた。順風満帆とは言い難い海外生活の中で、その出会いがどれほど尊いものだったか。

ずっと「自分の好むものだけを選ぶのは、やっちゃいけないことなんだ」と自己暗示し続けていた私にとって、この環境の変化は、静寂な天変地異だった。

 

 

「自分が美しいと思うものを、ちゃんと美しいと感じていいのか……」

 

そのことが、自己肯定につながり、他者との相互理解にまで繋がる。嬉しくなり、どんどん美しいと思うものを文章に綴り、写真に残し、世の中に話しかけてみた。するとまた、次なる道しるべが見えてくる。

そうした連鎖が始まったとたんに、これまで我慢していた10年間の感性が、それはもう決壊したダムのようにズドドドッッと溢れ出てしまい、収集がつかないくらい、世の中がキラキラと美しく見えはじめたのだ。

 

ちっとも美しい要素なんて持ち合わせていないと思っていた、実家のキッチンで育てている豆苗すら、あまりにも美しすぎて。

 

 


ある日を境に、私自身の美しさの指針は、他者に薦められるものでも、企業が流行らせようとするものでも、憧れの人が使うものでもなく、自分自身の細胞になった。

 

私が持って生まれた、枯茶色の瞳に馴染むもの、黄色くくすんだ肌に馴染むもの、黒くて細い髪に馴染むもの……そうした基準をもって、世の中の美しいと感じるものを集めていく行為は、わたし自身が生まれてきたことを肯定しているようでもある。(瞳の色を観察するのは、案外やったことがない人が多いと思うので、ぜひ観察してみてほしい)

 

思えば幼い頃から、アジア人として生まれた私たちは、生まれ持った身体や環境に劣等感を抱くための充分な環境を用意されている。

 

幼少から遊んでいた玩具は、シルバニアファミリーや、リカちゃん人形。どれも日本のメーカーが「素晴らしい欧米社会」への憧れを形にしたものだ。幼い私にとって、座敷にある日本人形は怖いけれど、リカちゃんは憧れの存在だった。伝統的寓話を現代的に描き換えたディズニープリンセスたちには憧れたが、下膨れのかぐや姫には憧れられなかった。そう、私たちが自らの持った身体を否定せずに、そのまま「憧れ」を夢見させてくれる巨大資本は、なかなか存在しなかったのだ。子どもは常に、巨大資本により提供されたエンターテインメントにより、自らの価値観を形成していく。

広告や雑誌からは「一重まぶたさんは、まずアイプチを…」と言われ続けてきたので、高校生の頃から、つけまつげをつけ、髪を染め、爪を塗り、自分を武装し続けた。ゆえに、化粧を落とした自分は耐えられず、お風呂上がりにもまた化粧をするという始末。

20代後半に、見栄を張って東京で借りていたデザイナーズマンションには、日本の古い道具はなじまず、それならばと北欧の食器を集めたりもした。

 

こうして知らず知らずのうちに、持ちきれないほどの欧米的コンプレックスを積み上げてきた。が、いざ夢の欧米で暮らしてみると、装飾的な街並みや彫りの深い顔、顔、顔に囲まれて、なんだか疲れてしまう。人柄にせよ、ビジュアルにせよ、料理にせよ、主張が強い。そうしたとき、ふと鏡で目に入った自分の一重まぶたや地毛が、あまりにもシンプルでミニマルなものに思えて、驚いた。

「あぁ、これでいいのか」とストンと納得してしまったのだ。何年もそこにあった顔なのに、本当の意味でちゃんと見たのは、生まれて始めてだった。”Less is more.” ずっと外にあると思っていた答えは、武装を剥がした内側にあったのだ。

 

そこから、(東アジア人である)自分が存在することが馴染む空間を作っていくのは、ひとつの壮大な任務のような、人生の愉しみにもなっていく。

 

自らの細胞が馴染むものを手繰り寄せていけば、自ずと「日本の美」と呼ばれるものにぶつかることが多い。でもそれは結果論の一つであり、ときに韓国の場合も、中国の場合もある。まぁつまり、好むものは東アジア的な美が多いのだが、たまにアラブやアイスランドの場合もあるからややこしい。なんと言語化しにくいのだろう。

でも、それは大した問題ではない。己の細胞と肌感覚さえ信じておけば、ラベルなんて別になくていいのだ。むしろ言語化し、ラベルを付け、様式化した途端に、失われる感性というものもあるだろう。

 

 

次第に、視覚的に惹かれるものの背景に何があるのか、そこに宿る思想や哲学を求めるようになった。なぜこの色に、形に、心地よいと引き寄せられるのか。家の中で靴を脱ぐ安心感の正体は一体何なのか……

そうした疑問の答えを探して古い本を読み、頭の中で持論とディベートさせたりしていくうちに、自らの心に思想が貯蓄されていく。コロコロ変わる雑誌の流行に、あっちを見て、こっちを見て、と翻弄させられていた頃とはまるで違う。

 

 

自分の中で「贅沢」の概念も変わった。

 ──「精神をすり減らす人がひとりでもいる空間は、贅沢ではない」

消費の在り方も変わった。マスメディアや広告に踊らされていたコンプレックス型の消費から、自分を確認していくプロセスとしての消費に。

──「コンプレックス、プレッシャーから解放せよ」

 

そしてなにより、嫌いなものの羅列で誰かと共感しあうのではなく、好きなもので惹かれ合えるようになった。これが一番うれしい。

 


関西の美大生という、小さなマーケットから、大きな世界に出てみてわかったのは、自分の担うべき公共性なんてものは、たかが知れている、ということ。むしろ、偏愛を極めて、極めて、極めて生きたほうがずっと、出会うべき誰かと強く惹かれ合うということ。

 

それが、私の場合であればたとえば、日本の、東アジアの美しさを見出すことに繋がるかもしれない。世界の中で「印象の薄い人たち」として静かに存在していた私たちの誇りを、取り戻すことになるのかもしれない。それは小さいけれど、それなりに大きな、やり甲斐ある役割だ。まぁべつに、やり甲斐なんて、なくても良いのだけれど。

 


Instagramで多くの人に、美しくあることについて、問いかけてみた。

何名かの人は、「美しいものを見るのは好きだが、自分自身が美しくあることは気が引ける」「限られた人に許されるもの」「美しさを磨いている人と一緒にいると気後れしてしまう」……と答えていた。わかる。すごくわかる。

 

一方で、こうした声も届いた。

「美しくあることは、自分に向き合うこと」

「己の哲学を持ち、その信念を守っている人は美しいと感じる」

「狭く深く集中できる環境を、どれだけ構築できるか。何かに没頭している時間は誰もが美しい

「視覚的美しさ、ではなく思想や行動など、主張するのでなく、滲み出る美しさがあると思います」

「好きなことを好きだと言うこと、好きな人を愛すること、自分の心に嘘をつかないこと」

「自己表現と同じだと思っています。経験から養われた感性のままに、自分なりの美しさを表現したい」

「自分の内部にある”美しき人”に問いかけ続けることです。信用に足り、満たされた気持ちになります」

「他者の評価に頼らず、自分として生きていることを心地よいと思えることだと思います」

「Queer Eyeを見て、”You deserve this beauty.”(あなたはこの美しさに値するだけの人だ)という考えを知れた」

「ある哲学書より、美しさとは自愛。ナルシストは自己愛。後者が日本では混同されがちだと思います」

 

──最後の回答はまさに、数年前までの私自身だ。美しくあることとナルシズムを混同しており、美しさを求めることを「取るに足らない、ワガママで、必要のない贅沢」と一掃することで、自分の心に薬を与えていた。でも違う。美しくあることとはつまり、どう生きるか? という自分への問いかけであるのだ。

 

私にとっての美しさは、儚さや、安心感、静寂を伴うものだけれど、仕事に子育てにと忙しい友人が、その合間に刹那的に綴る文章も美しいし、なにかの魅力に取り憑かれ、日常を放棄するほど取り組む友人の姿も美しい。美しさの定義は、懸命に生きる人の数だけ多様化していく。

 

 

美しさというギフトは、誰からももらえないし、どこに行っても買えやしない。両親から器や環境は与えられるかもしれないが、与えられてばかりの器では自ら輝きを発しにくい。美しさとはつまり、自分で自分に与える、自分にしか見いだせない、大切なギフトなのだ。

 

自己卑下と慎ましさが混同される世の中で、その人らしい美しさを誇らしく思うひとが一人でも増えて欲しい、と心から願う。

 


日々の“視点”は、こちらに記録しています

このエッセイは、2021年2月25日、文藝春秋より販売された『ここじゃない世界に行きたっかった』にも収録しています。同書は、過去にmilieuやnoteで発表したエッセイを大幅に加筆・修正し、さらに6編の書き下ろしを加えたエッセイ集です。

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はじめに

Ⅰ 共感、美しくあること

SNS時代の求愛方法
数字が覚えられない私、共感がわからない夫
ニューヨークで暮らすということ
美しくあること、とは
私はそのパレードには参加出来ない
「ここじゃない世界に行きたかった」――アイルランド紀行

Ⅱ じぶんを生きる
「化粧したほうの私」だけが存在を許される世界で 
人の話をちゃんと聞いていませんでした 
私の故郷はニュータウン 
先に答えを知ると、本質に辿り着きにくくなる
競争社会で闘わない――私のルールで生きる
ミニマルにはたらく、ということ

Ⅲ 生活と社会
晴れた日に、傘を買った話
五感の拡張こそがラグジュアリー
徒歩0分のリトリート
BLM、アジア系アメリカ人、私の考えていること
大統領選、その青と赤のあわいにある、さまざまな色たち

Ⅳ 小さな一歩 
大志は後からついてくる
続・ニューヨークで暮らすということ
「良いことでは飯が食えない」への終止符を
私の小さなレジスタンス
大都市から離れて
50歳の私へ

あとがき

 

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