晴れた日に、傘を買った話

三軒茶屋から徒歩10分のところに借りていたマンションの窓枠には、これでもかというほどビニール傘が並んでいて、手の届かない奥にあるものほどしっかり黄ばんでいた。

雨が降っていたらそこからマシなものを一本選ぶけれども、曇りのち雨であればまた一本新規が増える。雨のち晴れであれば、どこかに忘れてきてしまう。つまりは増えて、増えて、減って、増えて……という具合で、結果的には増える。

上京したばかり、豪徳寺の小さなアパートで暮らしていた頃は、500円の傘を買うことも惜しかった。突然の土砂降りは走って凌いでいたけれど、100円ショップを探して手に入れたショボい傘をそれなりに持ち歩いていたような気もする。つまり「どこのコンビニでも手に入る500円の傘を買うことに躊躇いはないけれども、1メーターだけタクシーを使うことはできない金銭感覚」の間では、ビニール傘は無尽蔵に増え続けてしまうのだ。

 

コンビニで500円の傘を買うとき、その隣にある1490円くらいの「ちゃんとした」傘にすべきだろうかと、いつだって数秒迷う。ちゃんとした傘を買えば、もうビニール傘を増やす人生は終えられるんじゃなかろうかと。けれども1490円の傘だって、しっかりしているけれど、心が高揚するほどのものじゃない。


「いつかとびきり美しい傘を買って、それを大切に使い、傘を溜め込まない生活を送るんだ」
という自分への期待ばかり膨らませながら、晴れの日になると傘のことなんてさっぱり忘れてしまい、雨の日になるとまた500円の傘を買う。夫も似たような消費行動をしていたので、二倍の速度でかりそめのビニール傘は増え続けた。

 

傘だけじゃない。三軒茶屋のマンションには同じ調子で、大量のものが溜め込まれていた。

雑誌に出るためだけに買った見栄えのする服。なぜか買ってしまったロゴ入りのマグカップ。見た目は可愛らしいけれども料理には似合わないカラフルな食器や、数回使って固まってしまったマニキュアに、回さなかったフラフープ。仕事で関わったからと買った雑貨、ちっとも続かなかった美容家電に、無印良品のアクリルケース。

買うときは、どれもこれも、気持ちが高揚していたはずなのに、数回使えばもう心が動かない。三軒茶屋のマンションは2018年7月のあたまに退去して、アメリカに引っ越す予定だったので、引越し先に持っていきたいほどの愛着ある荷物はすでに船便で出荷していた。

そして残った「持っていきたいほど」に至らなかったものの多さに、我ながら呆れてしまう。一体これまで、何にお金を払ってきたんだろう。たった数年で捨ててしまうものを集めるために、身を削って働いてきたんだっけ。

メルカリで売る時間もないので、Facebookでガレージセールの告知をしたところ、友人知人がぞろぞろと集まってきてくれた。過去一瞬でもときめいたものたちに別れを告げていく。惜しげもないものだと思っていながらも、人の手に渡るとわかった瞬間には、身を裂くような痛みが伴う。少しばかりの楽しかった記憶が別の家に持ち去られていくようで、自分の東京での思い出が消えてしまうような気もして。

あれよあれよという間にものは友人たちによって引き取られ、最後は民間の粗大ごみ業者が来て、引き取り手のつかなかったものを回収しておしまい。こんなに簡単に、ものはゴミに変わるのか……と呆然と業者さんに数万円払って、トラックを見送る。本当は世田谷区の粗大ごみとして出したかったのだが、計画性がないので、引っ越しまでに予約が間に合わなかった。


遠い土地への引っ越しは、手垢のつきすぎた暮らしをリセットするには都合が良い。傘を溜め込むタイプの人間も、新天地では別人格としてやり直せるはずだ。やり直そう。これからは、本当に必要なものだけ迎え入れよう。そしてもう、思い出を軽々しく手放したくない。

引っ越し作業を終え、移住のための書類仕事に疲れ果て、鼻血を出し、さらにぎっくり腰になった最悪の状態で、私はひとりヨーロッパ行きの飛行機に乗り込んだ。引越し先はアメリカだが、夫がヨーロッパで仕事があるので、そこで落ち合い、それから新大陸に向かうのだ。

 

 

 

 

「やぁ、何飲みます?」

 

いかにもやんちゃなロンドンの若者ふたりはそう尋ねてきた。いや違うんです、私たちは傘を買いに来たんですと強めに伝えた。

東京のヘアサロンで適当に渡された雑誌に、イギリスの老舗メーカーが作る美しい傘が載っていた。「これぞ生涯大切にすべき傘なんじゃないか」だなんて大それた気持ちになり、ネットを探しに探して、ロンドンにある老舗傘屋の店舗まで辿り着いたのだ。2018年7月10日、日差しの強い、よく晴れた真夏日のことだった。

 

彼らはなんだか期待が外れたような顔をして、「あぁ、傘ならそこにありますよ」と、店の隅に視線をやった。どうみてもパブらしき店内の隅に、客の忘れ物に見紛うような形で、何本かの傘が追いやられている。扱いの低さでいえば、三軒茶屋の窓枠に並べられた500円傘たちと大差ない。

 

まぁ、最近は雑貨を取り扱うカフェもあるし、コーヒーを出す雑貨屋もある。傘屋ながら酒が飲めるというのもアリなのだろう、だなんて思いながらもいくつか傘を広げてみる。バリッッと布地が剥がれる音と共に、埃がパラパラと降ってくる。

 

「二階にも傘がいくつかあるから、見たけりゃみてもいいよ」と声をかけられたので、ぐるりと曲がった階段を回り二階へと登る。そこでもやはり、何本かの傘が隅に追いやられている。

 

 

 

「あ、俺はこれがいい」

とびきり細く、真っ黒で、目立たない紳士用の傘を、夫はえらく気に入ったらしい。カラフルな店の内装や、他の鮮やかな傘に埋もれて気づかなかったけれども、確かによく見れば気品の高そうな姿かたちをしている。ピカピカの状態で百貨店の棚に並んでいたら、さぞかし高級スーツにも似合いそうな傘である。

バリッッと広げると、紳士淑女がすっぽり収まりそうな巨大傘だ。傘に限って言えば、大は小を兼ねる。その傘だけはちょうど二本揃っていた。「私もこれがいい」と言うと夫は予想通り「真似しないでよ」と返すのだが、「私もこれが一番気に入っただけ」と主張して、その細くて黒い傘を二本、やんちゃな兄さんのいるレジまで持っていった。

「ごめん、値段、いくら?」 と聞かれて、「えぇと、ここに値札があるけど……」と、傘にひっついた古い札を見せる。支払いを無事済ませ、包装紙もシールも貼られない裸の傘を腕にぶらさげて店を出る。買った傘をすぐにささずにいるだなんて、よくよく考えてみると、初めてなんじゃなかろうか。

振り返れば、お店の看板にはFOXの文字と、それを囲む2匹のキツネが輝いている。間違いない。こうして、我々はフォックス・アンブレラの傘を2本手に入れた。これでかりそめのビニール傘を増やす生活ともお別れだ、と、いかにも質のいい傘をなでまわしながら、上機嫌でホテルへと戻った。

 

閉じればステッキのように細く、開けば黒い花のように美しい。良い買い物をしたなぁ、とInstagramに投稿する。Fox Umbrellaの公式アカウントもご丁寧にタグ付けておいた。

すると、すぐに公式アカウントからDMが届いた。

 

「いい写真ですね。でも、あそこで傘を買ったんですか?あの場所ではずっと営業していないので、その傘が私達のものであるか、定かではありません。」

……だなんてDMを受け取った瞬間、これはまがい物を掴まされたか?と、たちまちキツネにつままれたような気持ちになってきた。日本の百貨店でも買えるのに、わざわざロンドンの店舗に行ったのだ。けれども、今思えば、ソースが2014年のNAVERまとめだけだったのは、どう考えてもおかしかったかもしれない。

何枚か傘の写真を撮影して、公式アカウントに送ってみた。すると真贋鑑定の結果は、すぐに送られてきた。

 

「あぁ、それは古いものです。よく見つけましたね。古い在庫があったに違いない。よくやった!」

聞けばあの場所はかつてFox Umbrellaの直営店だったのだけれども、今はパブになっていて、でもなぜか少しだけ在庫が残っていたらしい。接客してくれたお兄さんたちはパブの店員だから、傘のことはよくわかっていないらしい。なるほど。じゃあ、なぜ傘を売るのか? と思ったが、我々のような迷子の観光客が年に数回くらいは現れるから、落ち込まないように置いてあるのかもしれない。もしくは、たんに回収しそびれた在庫があるだけかもしれない。

 

夫に事の顛末を話すと「やったじゃん、価値が上がるね。レアものだ」と言ってきた。ものの価値とは何を基準に上がったり下がったりするのか、さっぱりわからないけど、この二本の傘に関して言えば「イギリス王室に愛された傘」というわかりやすいキャッチコピーよりもずっと、楽しい思い出が付加されたことは間違いない。

 

 

──私はそれからの2年間、ニューヨークと日本を行ったり来たりして暮らしているのだけれども、さすがに毎回この長い傘を飛行機に乗せるのもお荷物なので、日本では小さくて便利な折りたたみ傘を使っている。けれどもそれを開くたび、ニューヨークで留守番させている傘のことを恋しく思う。こんなにも雨が続く日々だとなおのこと。

 

そしてこの2年間を振り返れば、私が買った傘はFox Umbrellaのものと、その折りたたみ傘の2本だけだった。高級品でもない折りたたみ傘はあまりにも持ち歩きすぎて収納袋が破けてしまったのだけれども、穴を繕って今も使っている。機能性だけで選んだ傘だったけれども、そちらも随分と愛着が湧いてきた。

 

これはただ単純に、晴れた日に、パブで傘を買った話。パブで買った傘があまりにも気に入ったので、私は無尽蔵にものを溜め込まないタイプの人間になってしまった、というだけの話だ。そろそろやらかしそうだから、大切な傘には忘れ物防止タグでも付けておこう。

 

 

(文章・写真:塩谷舞 @ciotan

 

 

 

Fox Fine Wine & Spirit

 

118 London Wall, London EC2Y 5JA
Fox Fine Wine & Sprit

私が行ってから2年、傘を今も売っているかはわからないけれども、美味しいワインがリーズナブルに飲めるらしい。でも接客態度はイマイチだとTrip Adviserに書いてあって、やっぱりねと共感した。でもここをパブだからと諦めずに傘を買った自分にWell done!と言いたい。いつかまたロンドンを訪れるなら、今度はちゃんとワインを飲もう。


おまけ。Twitterにて、一生大切に使いたい傘の情報を募ったところ、たくさん集まったのでこちらでまとめています。 情報をお寄せくださったみなさま、ありがとうございます。

 

 

このエッセイは、2021225日、文藝春秋より販売された『ここじゃない世界に行きたっかった』にも収録しています。同書は、過去にmilieunoteで発表したエッセイを大幅に加筆・修正し、さらに6編の書き下ろしを加えたエッセイ集です。

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はじめに

Ⅰ 共感、美しくあること

SNS時代の求愛方法
数字が覚えられない私、共感がわからない夫
ニューヨークで暮らすということ
美しくあること、とは
私はそのパレードには参加出来ない
「ここじゃない世界に行きたかった」――アイルランド紀行

Ⅱ じぶんを生きる
「化粧したほうの私」だけが存在を許される世界で
人の話をちゃんと聞いていませんでした
私の故郷はニュータウン
先に答えを知ると、本質に辿り着きにくくなる
競争社会で闘わない――私のルールで生きる
ミニマルにはたらく、ということ

Ⅲ 生活と社会
晴れた日に、傘を買った話
五感の拡張こそがラグジュアリー
徒歩0分のリトリート
BLM、アジア系アメリカ人、私の考えていること
大統領選、その青と赤のあわいにある、さまざまな色たち

Ⅳ 小さな一歩
大志は後からついてくる
続・ニューヨークで暮らすということ
「良いことでは飯が食えない」への終止符を
私の小さなレジスタンス
大都市から離れて
50歳の私へ

あとがき

 

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