どうか怖がらないで、読んでほしい。南三陸で出会った強い女性たちのことば #東日本大震災
2017.03.11
Text by 塩谷舞(@ciotan)
Photo by 飯本貴子(@takoimo)
3.11にまつわる記事を読むことを、心のどこかで避けていた。
言い訳がましく恥ずかしいんだけれども、嬉しいことがあった夜は徹夜明けでも眠れなくなるし、怖いニュースを聞いた夜は恐ろしい夢を見ては泣いてしまう。バカ正直なくらい感情に振り回される自分なので、同じ時代に同じ国で、しかも数時間の距離で、多くの人が波に連れ去られた出来事を直視するには、心がすこし弱すぎた。
あの日から、6年。
大学を卒業して、3年勤めた会社を辞めて、一念発起してこのメディア「milieu」を立ち上げた。よし頑張ろう、と思っていたそのときに早速「塩谷さん、お仕事の依頼があるんです」と連絡をしてきた男性がいた。
南三陸を盛り上げたいから、ぜひ行ってきて欲しい、そこにいる人たちの言葉を記事にして欲しい、ということだった。彼の想いを聞いて、私が書いて広めることが、微力でも力になれれば……と、思った。
この記事は、私のようにどこかで避けてきた人にも、読んでいただきたいです。どうか、5分だけ時間をください。あたたかい言葉、知らなきゃいけないこと、たくさんあるので。
東京から仙台まで新幹線、そこからレンタカーを借りて2時間(JR気仙沼線でもアクセス出来ます)。
はじめて訪れた町は、これまで映像や写真で見ていた「被災地」とは、似ても似つかぬ姿。ほとんどが工事現場でした。
まるでピラミッドのように、各所に盛られた赤土。津波の悲劇を、二度と繰り返さないように。ピラミッドの上に、安心して過ごせる南三陸町を、今日も作っている人たちがいる。
そして3月3日、ひな祭りの朝。
ひとつのピラミッドの上で始まった、華々しいセレモニー。
「さんさん商店街、本日オープンです!」
津波で流されてしまったお店が、仮設店舗で運営していたお店が、一箇所に集まり軒を連ねて、やっと本格オープン。仙台から、東京から、大阪から、日本中のメディアが6年越しのこの瞬間を「復興の象徴」として伝えようと、取材に駆けつけていました。
東北楽天ゴールデンイーグルスのチアリーダーたち。寒さに負けないキラッキラの笑顔。
あら汁。やっぱり海の幸に恵まれた南三陸だから、びっくりするほどに美味しい。
「レシートと引き換えで、くじ引きが出来まーす!」と大声で叫びながら、元気に任務を遂行する子どもたち。
「笹かまぼこ、ひとふくろ500円です!いかがですかー!」
誰よりも大きな声を張り上げているのは、小さなかまぼこ屋さん。隣にいた5代目の社長さんが「ウチの7代目なんですよ」と、お孫さんのことを誇らしそうに、嬉しそうに、紹介してくれました。
7代目のアツい呼び込みにより2袋買っちゃいましたが、高級魚・キンキで作られたブリッとした笹かまぼこは、ほんっとうに、美味しい! 小腹が空いたときにも最高なので、10袋くらい買って帰れば良かった、と後悔。
明治13年創業、6代続いてきたかまぼこ屋さんの店舗は、あの日津波で流されてしまったそう。
今日は華やかで、賑やかだけれども。「さんさん商店街」のお店にはそれぞれ、乗り越えてこられた6年間がありました。
「これはね、津波の前のお店です」
と教えてくれた、新装開店でピカピカの文房具屋さん。
文房具だけでなく、南三陸のキャラクター「オクトパス君」などのグッズも並びます。地元の方に必要とされる文房具屋さん。そして、観光客にも楽しい文房具屋さん。
オクトパス君は、商店街の各所でサインとしても大活躍。墨ふいててかわいい。
先ほど踊っていた、東北楽天ゴールデンエンジェルスを発見。お二人とも、ここ宮城県のご出身。「次は球場でお会いしましょう!」と営業熱心。
ピカピカの全店舗に「球団のポスターを貼ってもよろしいでしょうか?」と回っている楽天の方々。
「ぜひ貼って!でも、ウチに貼るからには優勝してさ!応援してるからさぁ!」だなんて激励されてました。
ちゃっかり、いい場所に貼ってます。
さんさん商店街でのお昼ごはんは、地元の方のお勧めにより「弁慶鮨」へ。
いただいたのは、1日10食限定の海鮮丼、その名も「海神丼(ポセイドン)」。すごい名前やな……(笑)。
まぁこれが、美味しくて美味しくて……とくに、このウニがフワッフワで……! でも今、ウニってオフシーズンなんですよね。夏のウニ丼はどれだけ美味いのか、想像するだけで、もう。
開店前から行列のできる大賑わいで、板前さんたちは大忙し。みんな「待ってました!」とばかりに美味しそうに食べていて、とてもハッピーな店内でした。
ブティックもありますし……
ケーキ屋さんもあります。この日はちょうど、ひな祭り。
とにかく、みんなの活気が楽しい。どの店舗でも、勢いの良い宮城弁が飛び交いまくり。
さんさん商店街の設計を担当したのは、隈研吾さん。
「工事の様子をずっと見てきたけれども、今日、こうして人間臭さが入って、やっと完成しました。これからどんどん、南三陸町の方々が参加して、色んなものを足していける造りになっています」と、これからの発展を、この町に託しておられました。
そんな町の人たちは、みんなが口を揃えて、「やっとスタート地点に立てた」「今日からが本当の勝負」だと言います。
実は、商店街は予想していたほどに、店舗が集まらなかったそう。南三陸町の住民の数は、震災前の約1万7700人から1万3500人に減少し、未だ再開していない店舗が多数。
震災後2〜3年は多かったボランティアや工事関係者の宿泊やそれに伴う消費も、ここ数年はやはり減少しているんだとか。
まずは、復興のシンボルとして、商店街を。あたり一帯の工事現場はまだまだこれから……というのが、震災から6年目の現実です。
賑わう商店街を後にして、近くにある神社・上山八幡宮に向かいます。
工事現場ばかりの景色から一変し、年季の入った神社に、広がる森林。
高台にある上山八幡宮は、その鳥居の場所でピッタリと津波が止まったそうです。
“波は
鳥居の下まで
そこから上は別世界
紅梅が咲いて
福寿草が咲いて”
この詩は、この神社に生まれ育った工藤真弓さんが震災直後に書いたもの。ここ南三陸を代表する上山八幡宮、彼女はその25代目です。
2011年、3月11日。当時5歳になる息子のゆうすけ君を抱いて、津波に飲まれる町を走り、なぎ倒される電信柱を避けながら、高いところへ、高いところへと逃げました。
彼女は、3月11日から10日間の記録を、絵本として残しています。
真弓さん「私は震災前から、”五行歌”という詩歌をやっていたんです。そして震災後も、あのときのことを、五行歌にしていました。
すると、避難先で出会った絵本作家さんに『絵本にしてみたらどう?』といわれて。あぁ、そうしよう、と。
私は作家でもなければ、画家でもありません。でも、生き残った自分に出来る、1つめのことかな、って」
真弓さんは今もずっと、この神社で絵本の読み聞かせを行い、子どもや、海外からのお客さんにも、あの日のことを伝えられています。
──テレビで見る津波と、実際体験された方々が伝える絵本での津波。きっと、受け取り方もずいぶん違いますよね。
真弓さん「そうですね。あの映像だけが津波、というふうに捉えちゃいけないなって思っているんです。同時にいろんなことに気がついたり、生まれるものもあった」
──……生まれるもの?
真弓さん「南三陸の町が全部なくなりました。すると全てを失うのか? というと、そうじゃなくて。あるものが見えてきたんです。
山、海、家族。どれも大切なものなのに、今までそれが見えてなかったことに気づきました。今まであった命があっというまに天に召される……という震災を日常の中で体感すると、隣にいる人が永遠でないことに気づきました。だから、より優しくなろうとするし、大切にしようと思うんです」
真弓さん「津波が全部をもっていって粉々にしたのかというと、そうじゃなくて。絵本の最後に描いた、貝殻のようなものがちらばっているんです。そういうものを授かりながら、じゃあ私たちはどうするんですか…と」
──気の持ちよう、心をどこに向けるかで、それほどまでに景色が変わってくるんですか…。真弓さんは今、神社のお仕事だけじゃなくて、様々な地域の団体で復興活動をされていますよね。
真弓さん「いや、私もね、震災があるまでは、半径数メートルの世界しか見えていなかったんです。神社の仕事はしてるけど、あくまでも、子供をもった一人の母親…という身でした。
地域がどうとか、この世界がどうとか、地球が、環境が……とか、そんなことを考える大きさはありませんでしたし、そんなことを言う人でもなかった。でもやっぱり、大きな経験をして、反省したことが沢山あるんです」
真弓さん「後悔もいっぱいあって。もう二度と、後悔しないようにしたい。ちゃんと生きたい。変わっていくんです。というか、変わらせてもらっていくんです」
──震災で、心の持ち方が変わられたんですね。
庄悦さん「本人は震災後に変わった、と言ってますが、昔からですよ。震災前から、言葉に力のある人だったんです。僕は和菓子屋の息子として店を切り盛りしていたのに、彼女と話すうちに、『あれ、僕でも神主になれるかな…?』と思わされちゃうくらい、言葉にパワーがあるんです(笑)。」
──和菓子屋さんなんですね。
庄悦さん「店は、津波で流されてしまいましたので…今は神主だけをやっています」
──そうでしたか……。
庄悦さん「小さい店でしたからね。でも、神社が流されなくて、本当によかった」
真弓さん「昔は、津波で被害を受けた防災庁舎のあたりにこの神社もあったんです。でも、1960年のチリ地震津波で大きな被害を受けてしまった。そこで先代が、次の津波を心配してこの高台に引っ越してくれたんです」
未来を心配した先代が、守ってくれた神社。でも、当日そこに広がる景色は、あまりにも無残なものだったそうです。
“津波が去って
夜が明ければ
無惨
ひよどりが
慌てて飛んでゆく”
“町は
消えていた
あまりに非情で
声が出ない
涙も出ない”
真弓さんの絵本は、こう締めくくられています。
大きな声で言うでしょう。
なにも持たずに にげなさい。
今度はみんな 助かりなさい。
いのちをかけた伝言を、
明日に伝えてゆくために、
わたしたちは生きてゆきます。” 「つなみのえほん 〜ぼくのふるさと〜」より
「なにも持たずに にげなさい」
それは、津波を知るひとたちからの、命の底からの伝言です。
この日、私は南三陸町の高台にある「ホテル観洋」に泊まりました。
入り組んだリアス式海岸だからこそ、どの角度も眺めは絶景。まるで豪華客船に乗り込んだようで、ここが被災地であることも、ひととき忘れてしまいます。
高台にある立派なホテル。津波から逃げて逃げて、このホテルを頼って来た町民も多く、600人もの方がここで避難生活をおくっていた、とのこと。
そして今も、仮設住宅に住む方々はホテル観洋の温泉を無料で利用できるなど、町民にとっての憩いの場になっています。
「私共には、災害のときの役目があるんです」
そう話してくださったのは、女将の阿部憲子さん。
憲子さん「このホテルも下の2フロアは被災いたしました。でも、幸い客室は残っていたので、町民の方のお世話をさせていただけた。私共の仕事って、衣食住の提供があるわけですよね。とくに食と住に、強みがありますから」
あの日、揺れがあった直後。従業員たちも、自分の家がどうなっているかもわからない。テレビも繋がらず、情報が入らない。そんな中、港から逃げてきた町民から「家が津波で流されている」「叫び声を聞いた」「人が助けを求めていた」という声が聞こえて来る。
若い女性スタッフはパニックになったり、泣き崩れてしまったそう。
そんなスタッフを集めて、「心を強く持って」と励まし続けたという憲子さん。より高台にある保育所へ避難するべく、スタッフたちは布団を運んだり、館内中のロウソクをかき集めたり、焚き火をしたり。水も出ない、電気もつかない中で、ホテルにあるものは全て使って、みんなで乗り越えたそうです。
このホテル観洋のグループ会社では、9つの水産工場も運営されていました。ですが震災後、残ったのはたった1つだけ。
憲子さん「気仙沼にも2つホテルがあるのですが、その全てがチリ地震津波の教訓から、高台に建てていたんです。でも、水産工場は海のそばにあるでしょう。残念ながら、失ってしまいました。でも、このホテルが残ったおかげで、雇用が守れたんです」
憲子さん「震災直後、私たちの取引先は、続々と廃業が続きました。職を失うと、町を出て行かざるをえません。でも、この町の人口流出に歯止めをかけたかった。ですから、2011年の4月には、レストランを再開しました。
そうすると、酒屋さんが『店はまだないけど、商品を届けます』と、八百屋さんが『市場から仕入れた野菜を届けます』と、花屋さんが『花の準備ができます』と、言ってくれて」
──ホテルの従業員の雇用だけではなく、町全体の雇用まで……。
憲子さん「観光業は、裾野の広い産業だって捉えられているでしょう。
私たちが動くことによって、酒屋さんも、お花屋さんも、電気屋さんも、お茶屋さんも……なんとかなるかもしれない。
まだお店がなくても、ホテル観洋に納品していることで、お仕事を続けられている方もいるんです」
──すごいことですね……。
憲子さん「それから、ここがコミュニケーションの場となるように、目指したんです。町には、道路一本隔てて被災した人、しなかった人が存在するでしょう。そうすると、これまで仲がよかった間柄でも、誰かのお家で仲良くお茶が出来るかというと、難しいんです。
ここのロビーでイベントに参加したり、お茶をすれば、お互いその話題に触れずに、すこし開放的な気持ちになっていただける……そんなことを考えていました」
──まるで、経済活性装置みたいです。
憲子さん「外から、歌や、落語や、編み物や、得意分野を持って来てくださった方々のおかげでもあります。ロビーにあるピアノでコンサートをしてくださったりね」
──そうか……そうやって、得意分野があれば、役に立てるんですね。東京のみんなに教えてもいいですか?
憲子さん「もちろんです! ありがたいことです。でもね、特殊な専門能力じゃなくても、人の話を聞くのが好き……というだけでも、来て欲しいんです」
──そうなんですか?
憲子さん「ええ。震災直後、町の方から『うちは一人亡くなっただけだからいい』という言葉を聞いたときに、これは大変なことだ、と…。普通はお一人亡くなっただけでも、心が癒えるまでには長い時間が必要なはず。でもこれほど際立った災害ですから。家族のうち二人、三人、そして一家全員お亡くなりになってしまう……だなんてケースもあったんです。だから、肉親を、友人を亡くしてしまった方も、自分の辛さを、町の人には言えないことが多いんです。
自責の念も、それぞれあります。生き残った人の口から『流されている人を、見捨てて逃げて来てしまった』と。
『自分は高台に逃げて無事だったのに、自分を心配して助けにいった家族が、波に流されてしまった』という方のお気持ちは……」
──…想像も出来ないです……。
憲子さん「でもね、町の人も、外から来た方と交流するほど、元気を取り戻していくんです。
そして外から色んな視点を持った方が来てくださることによって、私共の商品も、もっとパッケージに工夫をしたら良いんじゃないか、ネーミングに工夫できるんじゃないか…とか、いろんなアイデアが生まれてきて。交流は人も元気にするし、商品の経済効果も高められるんです。
ボランティアの方から教えてもらって、Facebookを始めた60代の方もいらっしゃるんですよ。私も、最近周りに勧められて、あれを始めました。イン…イン…」
──Instagram?
憲子さん「そうです!」
https://www.instagram.com/p/BRQJ-uwja9G/?taken-by=norikookami
憲子さん「私たちは、震災のことを伝える“語り部フォーラム”も運営しているのですが、今は、震災の当事者ではない方も、関わり始めているんですよ」
──外の人が、ですか?
憲子さん「はい。私は、それは正しい流れだと思っています。だって、50年後にはこの震災の当事者は少なくなっているでしょう。被災してない人たちにも今から関わってもらわないと、継承していけない。高校生にも、他の地区の方にも関わってもらわないと。
そうして、みんなに見て欲しいんです。みんなに知って、聞いて欲しいんです。
私たちも信じられない、信じたくない、という思いで過ごしてきました。でも、だからこそ、自分たちのような思いをして欲しくない。
実は、過去の津波があったときに、先人たちは石碑を作っていたんです。ですが、何十年も経って、その石碑が見えなくなっていたんですよ。悔しいですよね。もっと、過去の災害のことを伝えるべきだった。ものすごく悔やんでいますし、反省しています。
これから『来る』と言われている、首都圏や南海の地震もあるでしょう。だから知っていただきたいんです。私たちが受けたこのような惨状を、繰り返さないで欲しいんです」
憲子さん「この町は良いものを持ってますから。朝焼けも美しいんですよ。食べ物も都会とは違いますし、ウミネコも飛んでいます。そんな魅力を、もっとしっかり、広めなければいけないんですよね。自分たちの力で……」
──本当に。海の幸は最高に美味しいし、ここからの景色は特別で……観光するにも、魅力的な町です。美味しさや美しさも、広めていきたいですね。
憲子さん「ありがとうございます。でも本当に、これからです。今日やっと、中心部の商店街がオープンしました。外から来た方に『まだ、これだけですか?』って、がっかりされちゃいけないですよね。
私たちは外から、あれだけの復興支援をしてもらっていますからね。当事者である私たちが、一番頑張らなきゃいけないんですよ。
東北人って、辛抱強いでしょう。でも、私最近思うの。辛抱強いだけじゃあいけないな、ってね」
力強く話す、憲子さん。母のような愛と、経営者としての視野の広さ、そしてたくさんのアイデアを携え、南三陸を自らの力で、元気にしています。
この日憲子さんに勧められて、翌日早起きして見た、南三陸の日の出。
一度はすべて流されてしまった海に、漁師さんたちの網が点々と浮かんでいます。
“海は
無情に
春の海
かがやいている
嘘だと言っているの?”
ちょうど、同じ季節。2011年、3月12日の朝の海も輝いていたと、真弓さんの五行歌は伝えてくれます。まるで、天国と地獄の間に立っているようだった、と。
でも真弓さんはこの日私に、こう話してくれました。
「いずれ、さんさん商店街から神社につながる参道が出来るんですよ。町のお祭りのときには、その参道に灯篭を並べてね、歴史を繋げたいんです!」
強くて、希望を持った、南三陸の人たち。
憲子さんとも、お別れの前に記念の1枚。「また来ます。必ず来ます。友達たくさん連れて!」と、約束しました。
津波が来たら、「津波てんでんこ」
南三陸では何度もなんども、「津波てんでんこ」という言葉を耳にしました。
「てんでんこ」は、「めいめい」を意味する「てんでん」に、東北方言の「こ」が付いた言葉。つまり、「津波が来たら、各々、一人で逃げてください」という意味です。
震災前から「津波てんでんこ」を何度も繰り返し共有していた、岩手県釜石市内の小中学校がありました。あの日「津波が来るぞ!」という中学生の叫びを聞いた先生たちは、グラウンドに並ぼうとする小学生たちの点呼も取らずに「バラバラに逃げろ!」と高台へ走らせ、99.8%という異例の生存率を残したんだとか。
ホテル観洋が運営する「語り部バス」でも、津波てんでんこが繰り返されます。
津波が来る前に、バラバラに、高いところへ逃げてください。
仲間を助けられなくても、どうか自分を責めないでください。
山の中に逃げた夜は、子どもや老人に風邪をひかせないように気をつけてください。
一晩中歌を歌って、眠らないように過ごしてください。
これは彼らの教えであり、悔しい思いです。どうか広めてください。どうか残してください。いつか日本のどこかに来る、津波に備えて。
南三陸の美味しいものを買おう。食べよう。
最後になりましたが……冒頭で少し触れた、「塩谷さん、お仕事の依頼があるんです」と連絡をしてきた男性は、乗り換え案内サービス「駅すぱあと」の運営会社で働いている、水口さん。
彼は震災後からずっと南三陸に通っていて、今回自社運営の「駅すぱモール」というショッピングサイトで、南三陸の笹かまぼことか、真弓さんの絵本とか、観洋ホテルの最高に美味しいふかひれスープなんかを、販売開始したのです。
さんさん商店街で、しこたま買い物した私ですが、かまぼこも、ワカメも、ふかひれスープも、しいたけも、その美味しさは私が保証します!
南三陸の「わかめしゃぶしゃぶ」は、「味噌汁に浮かせるやつ」というわかめの概念を根底から覆してくれるんです。わかめが本当に、シャキコリで美味なのです!
あなたが美味しいものを買う先で、元気になる人がいるかもしれない。募金やボランティア以外にも、出来ることがあります。宿泊することも、買うことも、広めることでも。
ずっと怖くて直視できなかった、3.11のこと。
悲しい話も、呆然となるような話も、たくさん聞きました。でも、それだけじゃなかった。強い言葉があり、笑顔があり、役割がありました。美味しいものも、たくさんありました。
これからは、自分の方法で、出来ることをやっていこうと思います。まずはここから。真弓さんや憲子さんたちの想いを記事にして、伝えて広めること。
この記事がインターネットの追い風に乗って、少しでも多くの人に広まりますように。
2017.3.11 Text by 塩谷舞(@ciotan) Photo by 飯本貴子(@takoimo)
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この機会をくださったヴァル研究所の水口さんに、心から感謝します。