欧米中心に発達した現代アートの世界を、私はどう生き抜いていくのか?

Introduction by 塩谷舞(milieu編集長)

 

私は海外で暮らしたことがない。だから、「あの国ではこうなのに、日本は…」という話を聞いても、「まぁ、そういうもんでは?」と思ってしまうくらいで、イマイチ危機感もなく、次の日も変わらずに過ごしてしまう。

自分の暮らしーーわかりやすく言えば、収入や、仕事や、食べるもの……などに直結しなければ、なかなか自分は危機感を抱けない。

 

だが、もし自分の目指す職業が、日本で成立しないものだったら?

アート……それも、コンセプチュアルな現代アートの領域で、日本の中で大成しよう、というのは、なかなかの無理難題である。

「好きなアーティストは?」と聞かれれば、多くの人はミュージシャンの名前を挙げる。「じゃあ、好きな現代アートのアーティストは?」と聞くと、答えられる人数はぐっと減ってしまうことは事実だろう。

だから、現代アートを志す作家は、多くが一度は日本を出る。

「現代アート」がマイノリティである国を飛び出して、メジャーなカルチャーとして息づいている国へ。

 

そこは、言語も思想も物価も異なる上に、「アート」の持つ意味合いも、その歴史も、ルールまでもが、まるで別物らしい。

日本で生まれ育ったアーティストが、そんな世界を目の当たりにしたら、一体どう感じて、どう戦おうとするのだろうか。

 

以下に綴られているAKI INOMATAさんの文章は「答え」ではないし、美術の教科書でもない。本気で今、悩んで悩んで悩んでいるアーティストの、生の思考の跡だと思う。

 


Text by AKI INOMATA(@a_inomata

 

私が4ヶ月弱のNY滞在から帰国したのが、6月下旬のこと。

帰国早々に和歌山の白浜へ、続いて岐阜の大垣へと展覧会の設営に行った。白浜での温泉越しに見る海は絶景で、大垣は各所に湧き水のある水の都だった。

その後、タイのバンコクでトークイベントに参加し、8月下旬、ようやく神楽坂に程近い実家に戻って来た。夏祭りシーズンの神楽坂は、ホオズキが並び、出店や、浴衣の人で華やいでいた。

神楽坂にて Photo by eisuke asaoka

やっと、日常が戻ってきた。私の日常は、複数の大学で非常勤講師を掛け持ちながら作品制作をする、アーティスト兼、先生だ。

アーティストとして、色々な国で展示させてもらえるようにはなってきたが、それだけで食べていくには、まだまだ遠い。

 

「アートはわからない」はずの国で流行る、地方の芸術祭

 

数年前までは、会社員をしながら、アーティスト活動をしていた。

会社員時代、当時の同僚(センスのいい人で、超難関大学出身だった)を誘って、谷中にある日本の某トップギャラリーを訪れたことがある。私にとっては、高校生の頃から足繁く通っている、大好きな場所だ。

その時は、視覚的にも見応えがある面白い作品を展示していたので、日頃アートに馴染みがない同僚にとっても、とっつきやすい内容だと思ったのだ。

ところが、展示を見た同僚の反応は「これのどこが面白いの?」だった。ストレートなこの言葉に、私は絶句した。正直、かなり傷ついた。

 

自分が小さい頃から好きで好きで堪らないアートを全く面白いと思わない人がいるだなんて。いや、そういう人もいると、流石にうっすらとは知っていたが、それは単に観に行くキッカケがなく、良い展示を見たことがないだけだと思っていた。実際に観ても面白いと思わないだなんて、当時の私にとっては、予想だにしない事件だった。

 

それから数年が経ち、アートを面白いと思わない人も居ること……いや、日本では面白いと思う人の方が圧倒的に少ないことに、今では流石に気がついている。

そんな現実があるにも関わらず、この日本では今、奇妙なことが起きている。

日本全国各地で多発している「芸術祭」の大流行である。


あっちでもこっちでも、日本全国津々浦々で、地方自治体の出資により、アートの展示がなされているのだ。これらは、「地域アート」「観光アート」とも呼ばれている。

2017年に開催されるものだけで、札幌国際芸術祭、ヨコハマトリエンナーレ、北アルプス国際芸術祭、Reborn-Art Festival、種子島宇宙芸術祭、奥能登国際芸術祭、清流の国ぎふ芸術祭、いちはらアート×ミックス、KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭、中之条ビエンナーレ、六甲ミーツ・アート 芸術散歩、亀山トリエンナーレ、「大地の芸術祭」の里 越後妻有(2017冬)SNOWART、西条酒蔵芸術祭……あげればきりがないほどだ。

「アートはわからない」が日本人の大多数の声に思えるのに、これはどういう事なのだろうか。

 

日本における「アート」は、現代アートではなく印象派が多数

 

ここで、2016年の美術展覧会入場者数ランキングを見てみよう。

昨年の2016年に最も多くの入場者数を記録したのは、国立新美術館で開催された「オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展」(約66万7千人)だ。

ランキングは、始皇帝と大兵馬俑、若冲、カラヴァッジオ、ゴッホとゴーギャンと続き、現代アートからは8番目に「村上隆の五百羅漢図展」がようやく入ってくる。

日本で「アート」といえば、それは現代アートというよりも、まずもって印象派なのだ。
現代アートは集客の点で、印象派から大分差をあけている。

それにしても、ルノワール展の66万7千人とは、凄い数ではないだろうか?
日本での印象派人気は、すさまじい。


クロード・モネ『夏のヴェトゥイユ』(1880)引用元

日本で印象派が人気な理由は、モネの睡蓮やゴッホの糸杉のように、風景を題材にしたものが多く、まずは「美しいものが観たい」そして「名画を通して歴史に触れたい」というニーズに合致しているからだろう。

そして、印象派は日本の浮世絵から影響を受けていることも、日本人に何となくしっくりくる原因だろう。それでいて、油絵として洋風に表現されているので、西洋文化を嗜む、といった憧れも満たしてくれる。

ただし、印象派と現代アートの「あいだ」は、日本では全く共有されておらず、すっぽりと抜け落ちている。

印象派から、どういった道筋で、今日の「現代アート」に至ったのか?

もちろん、中学や高校で配られるような美術の教科書にも印象派以降、絵画に多視点を取り入れたセザンヌが登場し、それはピカソとブラックらのキュビズムに続き、さらに具象から離れたカンディンスキーやモンドリアンらの抽象絵画……と脈々と続いて現代アートに繋がっていることは明記されている。

ただ、やはり欧米と日本では、美術を学ぶ環境に大きな違いがある。

 

欧米の大都市にある大型美術館に行くと美術史上の重要な作家がその順に並んでいるので、美術館を観て回れば、なんとなくアートの流れが把握できる。

だが、日本ではそういった美術史を一望できるような美術館はあまりなく、勉強しづらいように感じている。

 

だからこそ、頻繁に展示される「印象派」が身近な西洋美術として存在し、その間が抜けてしまい、突如として「現代アート」が現れる。ゆえに、現代アートは孤立した存在、降って湧いたように出てきた謎ジャンルになってしまう。

これが「現代アートはわからない」の所以の一つだと、私は思っている。

 

美術史の流れを学ぶ足がかりとしては、E.H.ゴンブリッチ著『美術の物語』を読むのが鉄板だが、パリのルーブル美術館やNYのメトロポリタン美術館などの大型美術館に何ヶ月か篭ったほうが早いのではないかと思っている。


ところで、2016年に私が参加した「KENPOKU茨城県北芸術祭 海か、山か、芸術か?」の来場者数は約77万6千人である(参考資料)。

ルノワール展に勝った!?

……いや、そうとは言い切れない。

数え方が違うため、この両者の数を比べていいはずがない。

芸術祭の場合、海に遊びに来たり、もしくは六角堂の観光に来たら、偶然その時アートの展示をやっていた、ということが起こり得る。

そういった来場者を「ルノワールを観る」という明確な目標を持って何時間も並んだかもしれない来館者と同じように扱ってはならないだろう。

よって、美術館での展示と比べるには、だいぶ差し引いて考えなくてはいけない。しかし、各地で行われている芸術祭は、都心から離れているにも関わらず、結構沢山の人が訪れている……ということは事実だ。

茨城県北芸術祭での私の展示にも、ギャラリーで展示する時とは比べものにならないくらい、沢山の人が来てくれた。

Photo by Kohsuke mori

とにかく、地方での芸術祭が、これほど多く催される国を、私は日本以外に知らない。NY滞在を終えて日本の現状を改めてみた時、良かれ悪しかれ、これは現代の日本のアートが置かれた状況を示す、大きな特徴であると思った。

 

批判も多い地域の芸術祭だが、私たち作家は鍛えられてもいる

地域振興のために、自治体がお金を出して、芸術祭を開く。

だが、そもそもアートは地域活性化を目的とした営みではないはずで、そういった芸術祭に参加する場合、作家として目指すことと、自治体や住民が求める町興しへの期待とが、どこまで合致しているのか、不安に感じることがあった。

そして、芸術祭を見に来るアート関係者と、そうでない人から求められるものには乖離があるとも感じている。

それ以外にも、地域アートの問題点は、既に散々議論がなされてきているところでもあり、その是非をここで検証するつもりはない。もっとも、私は芸術祭の乱立自体を称賛するつもりはない。


ただ、私自身も地域の芸術祭で忘れられない作品の数々に出会ってきたことも事実だ。心うち震えるような体験をした作品をあえて一つだけあげるなら、それは「KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭」で発表された飴屋法水《何処からの手紙》である。

作品概要は、こちらのレビューなどを読んでもらうのが良いと思うが、届いた手紙の地図をたよりにその場所を訪れると、そこで出会う何者か(この何者かはニンゲンに限らない)が手紙を通して語りかけてくる、異色の演劇作品である。

見過ごされてきたであろう小さな、けれどあまりにかけがえのない物語を、その土地からすくい上げ、私と出会わせてくれた飴屋に、畏敬の念を抱かずにはいられない。

 

私自身も、地域での芸術祭に何度か参加してきたことで、作家として相当に鍛えられたことに感謝している。


NYでのアーティスト・イン・レジデンスと地域での芸術祭に参加することは、ホームベース以外で滞在し、制作する……という点からいうと非常に似通っている。

ただしアーティスト・イン・レジデンスとは違い、地域の芸術祭では、屋外へ、街の外へ、さらには山の中へと出て行く試みも多い。

地方の芸術祭に来ているお客さんは、アートも観に来ているのだろうが、同時に、美味しい空気を吸いに、美しい景色を観に来ている。(もちろん里山、郊外、地方都市、状況は様々であり、ひとくくりには出来ないが、ここでは私が参加した茨城県北芸術祭をはじめとした、幾つかの芸術祭を念頭においている)

島国の日本には海があって、山がある。

 

こう言っては身も蓋もないほどシンプルだが、山や海がある日本の風景は本当に美しい。

 

日本でこれだけ地方の芸術祭が盛んなのは、全国津々浦々には、まだまだ美しい風景が山ほど眠っているからだと思う。

この「自然との対話」は私が作家としてテーマにして来たこととも重なる。東京の都会に生まれ育ち、自然から隔絶された都市空間に疲弊した私にとって、自然との関係を考えることは、重要な課題だ。

ちなみに、NYのアーティストに聞いた、日本で行きたい場所の断トツのトップは「直島」である。

NYで気づいた、自分自身の作品が持つ日本らしさ

さて、誤解を恐れずに言えば、私の作品は超他力本願なアートだ。

私の作品を「つくって」いるのは基本的に「生き物たち」だからである。

Photo by keizo kioku

生物とのコラボレーションをしてきた私の過去作の制作において、「やど」を吟味して引っ越しているのはヤドカリであり、「みの」をつくったのはミノムシであり、アンモナイトの殻をすっかり気に入ったスナダコは洗いたくて殻を奪った私に怒って海水を吹きかけてきた。

 

 

私が担っているのは「やろう」と決めることと、調べ物と、雑用etc.である。作品の重要な部分を担うのはいつも、生き物たちだ。(そんな生き物たちの飼育に、私は実に多くの時間を費やしてもいる。)

『girl, girl, girl . . .』(2012)

NYでふと、私のこの「他力本願」なアートは、ある意味とても日本らしいのかもしれない、西洋とは異なる価値観を示しているのかもしれない、と思うようになった。

西洋では、人間が世界の中心であり、自然は人間が支配し完全に制御すべき対象……という考えが根強い。この姿勢は、日本とは根本的に異なっているように思う。

このことに、NYのメトロポリタン美術館のジャパンギャラリーの展示を見て改めて気付かされた。

そこに展示されていた日本の掛け軸や屏風絵からは、自然を愛でる気持ちが感じられる。そしてそれは、自然と対峙し、自然を自らの支配下に置こうとする姿勢ではなく、まず自然があって、その中に人間が居候しているような、自然の中に包み込まれているような感覚に見て取れた。

NYでは築100年越えの住居も珍しくないが、どこも頑丈な創りである。

一方、木と紙でつくった日本の古い家屋からは自然の中に「仮住まい」しているような趣を強く感じる。

私は制作の中で、自分がコントロールできない事柄(自然や動物)を扱っており、そこに可能性を感じている。

それは、常に“I”=主語から始まる英語圏の考え方から生まれたものではなく、主体が曖昧な日本の文化から出てきたものなのだろう。

私は、他者に決定権を委ねてしまう「他力本願」的な表現をもって、美術の文脈の中で、欧米とは違った価値観を問いかけてみたい。

そもそも「自然」と英語で言いたい時、「Nature」と訳してしまうのだが、”自ずからなる”と書く「自然」と、「Nature」では、だいぶ意味が異なるように思う。


さて、これを書いている間に、私は神楽坂を離れ、またアメリカに来ている。

前回のNY滞在がきっかけで、シカゴでの展示のチャンスを得たのだ。

「Coming of Age」での展示風景(展覧会インフォメーションは記事最後に記載)

再び日本に帰国したら、私は今まで自分が無視して来た日本美術の歴史を、和辻哲郎などの日本の思想家の本を、寺田寅彦や中谷宇吉郎などの日本の科学者の言説を、改めて紐解く旅に出ようと思う。

そこには、西洋とは違った思想、姿勢があるからだ。そんなことに、遠く離れたNYで気がつくとは皮肉なものだが。

探しものは、大抵、出発点に既にあるのかもしれない。

 

神楽坂にて Photo by eisuke asaoka

 

グループ展 「Coming of Age」
会期: 2017年 9月9日(土)-11月19日(日)
場所: Sector 2337 ( 2337 N Milwaukee Ave., Chicago IL 60647)
出展作家: Rebecca Beachy, Rhonda Holberton, Essi Kausalainen, Takahiro Iwasaki, Aki Inomata, Ebony G. Patterson, and Tsherin Sherpa
http://sector2337.com/exhibits/

 

この連載の、これまでの記事はこちらから。

 

AKI INOMATA

現代美術家 東京藝術大学先端芸術表現科修了
生き物との恊働作業によってアート作品の制作をおこなう。 主な作品に、3Dプリンタを用いて都市をかたどったヤドカリの殻をつくり実際に引っ越しをさせる「やどかりに『やど』をわたしてみる」、飼犬の毛と作家自身の髪でケープを作り互いが着用する「犬の毛を私がまとい、私の髪を犬がまとう」など。 「KENPOKU ART茨城県北芸術祭」(2016)、「Out of Hand: Materialising the Digital」Museum of Applied Arts & Sciences、オーストラリア (2016—17)、「ECO EXPANDED CITY 2016」WRO Art Center、ポーランド (2016)、ほか国内外の展覧会に参加。
所属ギャラリー:MAHO KUBOTA GALLERY  

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