続・50歳の私へ

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まだ我が家にパソコンがなかった頃だから、あれは7、8歳頃の記憶だろうか。1999年7の月に地球が滅亡するというノストラダムスの大予言に怯えていた私は、毎晩眠りにつくまで付きまとう死の恐怖を紛らわすために、ラジオを聴くのが日課だった。

小さなベッドの枕の横に、おさがりの青いラジカセをぴたりと置いて、チューナーをくるくると指で回す。そしてできるだけ明るい話をしている局を探して止めるのだ。ノイズまじりであればアンテナをピンと伸ばして、深夜ラジオ、ラジオドラマ、落語に音楽……姉たちを起こさないように小さな小さな音で、いろんな番組をこっそりと楽しんでいた。

 

数年後、中学生になった長女が「FM802が一番イケてる」だなんて豪語してくるもんだから、昼でもCDコンポからFM802を流すようになった。これまで聞いていたしっぽりとした他のラジオ局とは明らかに違って、若者のための、最高にかっこいい選曲ばかりで驚いた。”FUNKY MUSIC STATION FM802” というジングルが流れるだけで、大阪郊外の民家であれど、カルチャーの香りがする雑多なCDショップの空気が雪崩込んでくるのだ。アイドルグループばかりがゴシップ的に取り扱われるテレビの音楽番組とは、明らかに一線を画していた。DJたちは南森町のスタジオから軽快な大阪弁トークを繰り広げ、いつしか身近な憧れの存在になっていた。次女がFM802のとある番組宛に送ったFAXが選ばれ、DJマーキーと電話が繋がったときは、家族みんなで大興奮したものだ。

うちの近所にある万博記念公園は、いつもはだだっ広い空間に太陽の塔がぽつりとそびえ立っているのだけれど、年に1度は大きなお祭りが開催される。万博公園お祭り広場はFM802が主催するミートザワールドビートというフェスの開催地となり、著名なミュージシャンが国内外からやってくるのだ。チケットの倍率はあまりにも高く、そうそう中に入ることは叶わないのだが、風向きによっては部屋の中まで届いてくるJUDY AND MARYやウルフルズの歌声を楽しんだ。退屈な千里ニュータウンの暮らしであれ、FM802にチューニングをあわせればいつだって様変わりするのだ。

 

 


そんな日々を送っていたのに、大学生になりiPodを手に入れてから、ぱたりとラジオを聴かなくなった。それにもう、刺激的な世界の情報は全て、ソーシャルメディアが運んできてくれるのだ。FAXを何枚も何枚も送ってやっと読んでくれるラジオ番組とは違って、もっと近く、もっと直接的に繋がることができるインターネットの虜になった。当時の私はアートフリーマガジンを作ってあちこちに配り歩いていたのだが、物理的な紙の重さに耐えかねて、「これからはデータの時代だ」「インターネット産業しかない」だなんて口先ばかり達者な大学生になり、就職先を思案した。そしてアートや音楽の情報をインターネットで発信する、原宿にあるCINRAという若いベンチャー会社から内定をぶん取った。

 

けれども大学4年の秋、面識のあるFM802のとあるプロデューサーから、突然の連絡が来たのだ。「しばらく、ウチで働けへんか?」

断っておくと、私は大学3年の頃に半年休学していたので、そこから卒業して上京するまで残り1年半の猶予があった。比較的暇になるであろう大学5年の1年間を、FM802のアルバイトスタッフとして働かないか? というお誘いだった。

その配属先はラジオ局ではなかった。FM802には、著名なイラストレーターやアーティストを数多輩出してきたアート事業部があり、そこが全く新しいアートギャラリーをつくるから、オープニングスタッフが必要だと言われたのだ。場所は2011年の春にオープン予定であるJR大阪三越伊勢丹のメインフロア。なんて素晴らしいオファーなんだろう! と、時給を聞く前から二つ返事で快諾した。

京都郊外の大学生活はまるでセピア色だったが、大都会梅田の真ん中で、お洒落な販売員やフレッシュなアートに囲まれて働く仕事は、大学最後の1年を文字通り色鮮やかなものにしてくれた。それまで手を出してきた全てのアルバイトでは自らの処理能力の低さを目の当たりにするばかりで、どれもこれも全く続かなかったのに、これに関しては天職かもしれないと思えた。大学生アルバイトとはいえ、ほぼ常勤。バックヤードでの在庫管理や配送方法なども試行錯誤しながら改善しつつ、「店頭にいます!」とツイートすればいつも誰かが遊びに来てくれた。中でもchiaki koharaというアーティストの個展は最高にエキサイティングで、彼女とは仕事終わりのお好み焼き屋で、何度も大きな夢を語り合った。

 


「コイツは塩谷ゆうてな、美大生でオモロイことやっとってんけど。来年にはウチなんか辞めて東京のITベンチャーに行きよんねん!」

プロデューサーが誰かに私のことを紹介するときはいつもこんな調子で、冷やかしと皮肉が綯い交ぜになっていた。私の内定先が運営するCINRA.NETというカルチャーメディアは、FM802と同じインディーズ音楽や若手のアートを取り扱うために広義でいえば「競合」となるのだけれど、こちらはラジオ、あちらはインターネット。これからどちらが成長する産業か? という設問がテストに出れば、ラジオと回答する人はいないだろう。

ときどき南森町にあるFM802の本社で作業をすることもあったのだが、壁にはずらりと「京阪神エリアで○年連続No.1!!!!!」だなんてポスターが掲げられていた。FM802が生まれたのは平成元年。スタート当時はファンキーなロゴステッカーを配って社会現象を巻き起こし、「ロックしか流さない」という偏ったプライドを持った彼らは異端のラジオ局だったらしい。たちまち若者たちの知るところとなり、熱烈な支持を集め京阪神の覇者に登りつめた歴史があるのだが、それは昔。私が働いていた頃のFM802は、なだらかな首位独走が続いている状態だった。

新しいラジオ局を立ち上げる人なんて見たことがなかったが、新しいWEBメディアは群雄割拠の勢いで生まれていた。もはやインターネットでは、動画や音楽だって視聴できる。試合をする土俵は変わっているのだ。京阪神No.1だなんて言われても、東京に行けば電波すら届かない。インターネットなら世界と繋がれるというのに! No.1!!!!!のポスターが飾られた会議室でひたすらアートの梱包作業に従事しながら、そんな生意気なことを考えていた。

 


技術の進化によるメディアとプレイヤーの移り変わりは、いつの時代も繰り返されてきたことだ。たとえば1952年の名画である『雨に唄えば』では、サイレント映画の終焉とトーキー映画の幕開けの摩擦が描かれている。

サイレント映画が当たり前だった頃。フイルムに音を付けるトーキー映画が生み出されたが、業界関係者には下品だなんだと嘲笑されていた。けれども大衆の心をしっかり掴み、たちまちハリウッドにもトーキー映画の波が押し寄せてきた。それと同時に、キャリアのある大物俳優たちも「声」と「歌」を求められるようになったのだ。

それまで銀幕の大スターであったリナ・ラモントは、飛び抜けた美貌を持ち、名声も確立されていた。しかし残念ながら、美声には恵まれなかった。滑舌の悪い声は甲高く響き、歌を歌おうにも見事な音痴だ。 

危機感を抱いた大女優のリナは、美声を持った駆け出しの女優キャシーに目をつけ、彼女を自らの「アフレコ専用の人材」として裏方に徹させようとする。

 

「私は大統領よりも稼いでいるんだからね!」

「私が出れば次回作も稼げるのよ!」

「私と無名の若手女優、どっちが大事なの?!」

 

……と、権力を駆使してはキャシーのデビューを阻止し、映画界の頂点に居座り続けようとするのだった。しかし、周囲は大女優よりも、トーキー映画の世界でスターとなるポテンシャルを秘めた若いキャシーに味方する。結果、大女優の名声は地に落ち、キャシーは新時代の寵児となるのだ。

2012年、皮肉と共に大阪を送り出されながら東京の「ITベンチャー」に就職した私は、ときどき潰れそうになりながらも、着実にインターネットとWEBサイトにまつわる技術を身に着けた。そうした技術力を武器にして独立した2015年頃には、SNS時代のプレイヤーとしてさまざまな媒体が取り上げてくれたのである。メディアの世界に進みたいと就職先を迷う中で、権威ある出版社ではなく、ブランド力のあるラジオ局でもなく、「名誉なきWEBメディア」の世界を選択したのは大正解だったと、過去の自分を祝福した。

そうしたとき、たまたま名画特集に流れてきた『雨に唄えば』を観たのだが、時代の追い風に吹かれて舞い上がっていた私が自己投影するのはもちろん、新時代の担い手であるキャシーのほうだ。プライドを捨てられない大女優のリナはあまりにも哀れで、ああした老害になってはいけないと感じたものだ。

 


けれどもインターネットの流れは、映画の流れよりもずっと速い。注目してもらった翌年にはもう、私は「期待の新人」枠からは外されていた。そして雨後の筍のようにWEBメディアとWEBライターが増え、と思えば動画クリエイター戦国時代とも言われ、TikTokにもInstagramにも私が私がと主張する声がひしめき合い、常にU25の若手がチヤホヤされる。そうした流れの速い濁流に掻き消され、私の時代がもう終わってしまったのか? と静かにジェラシーを抱いていた中、とある記事が流れてきたのだ。

 

「在学しながらホテル経営!ホテル王を目指す東大女子・龍崎さんに迫る」

若干煽り気味のタイトルの記事だが、記事の内容にはあまりにも大きなカルチャーショックを受けた。まだ10代である龍崎翔子という若者が、東京大学に通いながら、最初はAirbnbなどのインターネットサービスを駆使してとっかかりを作り、現在は北海道と京都に2館のホテルを経営しているという。彼女の口から語られている夢の大きさに驚愕し、嫉妬なんてゆうに飛び越え、たちまちファンになってしまった。突如彗星のごとく現れた8歳下のホテルプロデューサーに、私は自らの時代の終わりと、新しい時代の始まりを同時に感じたのだ。

私の世代の多くはきっと、外に出せない気持ちを吐露するメランコリックな場所として、インターネットの世界に夢中になった。90年代、掲示板やテキストサイトに集まっていた若者たちがそれなりに社会性を身に着けて、WEBメディアや、ネット広告や、WEBデザイン業界を構成する一員となっていった。私の就職先であるCINRAでも、90年代インターネットカルチャーに浸っていた人が大多数を占めていた。私たちの目的は、インターネットそのものだった。

けれども下の世代にとってはもう、インターネットはインフラだ。蛇口をひねれば水道の水が出るのと同じように、スマホがあればネットに繋がる。水道そのものの珍しさや機能性に一喜一憂していた世代とは明らかに違い、そこから出る水道水を使って、スープをつくるのか、樹を育てるのか、それとも人命を助けるのか……そんなところまで視野が広がっていたのである。

その後私と翔子ちゃんは友人となり、いくらか年長者である私は「インターネットの使い方」を彼女に教えた。すると彼女は道具の使い方をすぐに学び、さらに大きな世界を創造していく。絶望的なニュースばかりが報じられる日々の中、彼女の飛躍を見守ることは、希望でしかなかった。

コロナウィルスの影響で観光産業が厳しいとなれば、即座に彼女はホテルの感染症対策を徹底し、帰宅困難者のためのシェルターに変えた。GO TOキャンペーンの概要が分かりづらいとなれば、すぐさま資料を詳細に読み解き、同業者向けにオンライン説明会を実施した。そしてついには、国の有識者会議に呼ばれるほどにまでなっていた。

翔子ちゃんとはもう、何度も夜通し語り合っているのだけれど、知れば知るほどに彼女は倫理的で、聡明で、謙虚で、強くて、そして弱い。内側の弱い部分を友人として共有したいし、外側の逞しく進んでいく姿には最大・最高の敬意を表したいのだ。


彼女のような歳下の友人たちは、私に次の夢を持たせてくれた。それは寮母になることだ。

昭和な響きだと思われるかもしれないが、私は50歳になったとき、本当に寮母になりたいのだ。これまで数多のスターと呼ばれる人をインタビューして、記事にしてきたけれども、彼ら彼女らは誰一人残さず、表に出せない弱い部分も持っている。そして起業家であれ、アーティストであれ、表に立つ人たちの精神的負荷は必要以上に重いものだ。SNSなんて使えばなおのこと。

ニューヨークで暮らす中で、歳下の友人がぽつりぽつりと我々を頼って泊まりに来てくれるのだが、彼女らは到着するやいなや、とても大きな夢を語ってくれる。けれども何日も一緒に過ごしていると、次第に内側にある大きな不安も口にする。メディアであれば華やかな成功かどす黒い不祥事しか取り上げないけど、時代をつくる人たちが、弱さや不安を和らげる場所はもっとあっていい。そうした寮を営みたいのだ。


そういえば、私が22歳の頃に「ウチで働けへんか?」と声を掛けてきたプロデューサーである谷口純弘さんという人は、当時50歳間近であった。親ほどの年齢だとは到底思えないほど、朝から晩まで好奇心に満ちて動き回る彼は、いつだって次世代の才能を探していたのだ。FM802の中で彼が立ち上げたアート事業の名前はdigmeout。”Dig me out.” つまり「私をみつけて!」という意味だ。

私はアーティストではないけれど、谷口さんに見つけてもらった一人だろう。アートギャラリーで働かせてもらっただけじゃない。私が谷口さんのミクシィアカウントを見つけて、「美大生向けの講演会をしてください!」とオファーを出した20歳の頃からもうずっと、谷口さんは私に刺激溢れる世界のことを教え続けてくれた。


ニューヨークから東京に戻り、そして新大阪駅まで辿り着けば、定年退職した父がプリウスで駅の前まで迎えに来てくれている。大きなスーツケース2台をトランクに乗せてから後部座席によいこらせと乗り込むと、カーラジオからは懐かしい声が聴こえてくる。子どもの頃から慣れ親しんだFM802のDJたちが、今でもそこで喋り続けているのは驚きだ。

 

「802やん。変わらへんなぁ」と私が言うと、「ちゃう、これはFM COCOLOや」と父がすかさず訂正する。

FM802は、2010年頃から大阪のラジオ局FM COCOLOの運営を担い、2012年4月には完全に事業を譲り受けた。そして同じラジオ局の中で、リスナーの層を2つの周波数に分けたのだ。

FM802は若者のためのラジオ局としてスタートしたが、今年で開局32年。古くからのリスナーはもちろん、すっかり歳を重ねてしまった。そこで同じく歳を重ねたDJたちと共に、年長者からFM COCOLOに移動して、「大人向け」の音楽やトークをのんびり楽しんでいるのだ。そうした1局2波体制の経営方針はラジオ局の大成功事例として、ニュースでも報じられていた。

FM802と同じだけ歳を重ねた32歳の私にとっても、FM COCOLOは心地よい。どこまでも懐かしいその大阪弁に耳を傾けながら、あぁここは間違いなく私の故郷だと、新大阪から千里ニュータウンに帰る中、後部座席で父に隠れて泣いてしまった。時代錯誤だと思っていたラジオの世界でも、実は大きな経営判断が繰り返されて、美しい成長を遂げていたのだ。

 


私にとって代替しようのない、幼い頃から歩んできた大切なメディアが、今でも続いていることがどれほど嬉しいか。一緒に歳を重ねることが、戻るべき場所があることが、こんなにも慈愛に満ちたものだとは。そんな言葉にできない安心感に包まれながら、将来の夢がもう一つ増えた。隠居だなんて、サポートに徹するだなんて言わないで、50歳になっても、80歳になっても、書くことを辞めないでいたい。

これまで読んでくれていた読者は、どこかで離れてしまうかもしれない。商業的な仕事としては、どんどん先細りしていくかもしれない。けれども、今の読者がまた戻ってきたいと思ってくれたときに、空白ぶんだけ歳を重ねて、それでも変わらずに存在していることのほうが、ずっと大切なのだ。

時代は変わっていくのだから、書く場所は変えたっていい。私が憧れたFM802のDJたちも、みんなFM COCOLOに移動しているのだし。けれども、書くことだけはずっと辞めないでおこう。私はすぐに自分で言ったことを忘れるが、初めての本にこうして書いておけば、さすがに忘れやしないだろう。

 

 

 

 

 


これは2020年12月に執筆し、『ここじゃない世界に行きたかった』に収録した一編です。どうして今この文章をここに掲載したかというと、ここに出てくる谷口さんが独立し、chignittaという拠点から、あたらしい挑戦を初めているから。

谷口さんらが中心になって開催するアートコンペ&アートフェア「メタセコイア」の審査員として、私も協力させていただくことになりました。大阪の京町堀を舞台にした公募型のアートフェアです。これまでお世話になるばかりだったけれど、何か次の世代に繋がることを、紡いでいければとても嬉しいなと、参加させていただくことにしました。

・メタセコイア

4月9日には、同じく審査員で、起業家の家入一真さんと一緒にトークさせていただきます。オンライン説明会、という体裁ではありますが、どなたでもご参加いただけますので(しかも無料なので)ご興味があればぜひ。

・オンライン説明会への参加申し込みはこちらから

 

 

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